フランスの新聞社 Charlie Hebdo社がイスラム原理主義者によって襲撃される悲しい事件があり数日が経過しました。
「JE SUIS CHARIE (私はシャーリー)」は、事件発生後に掲げられたコピーです。それが反テロを意味するのか、出版や表現の自由を意味するのか、自由・博愛・平等を唱いフランスの正義を訴えるのか、とても曖昧ですが、ポスターに書かれたサブコピーは、「団結」でした。
そして、日曜日の今日は、フランス全土で500万人の国民が団結をみせたと報道がありました。
この「JE SUIS CHARIE」というモノトーンでタイプフェイスだけのスタイリッシュなデザインが、まったくもってCharlie Hebdo的ではありません。Charlie Hebdoはもっとやぼったくて、肩の力を抜いた感じだし、本来ならあの独特の風刺画のイラストレーションがでかでかと描かれるはず。
事件を報じた、同じく左派のLibération紙の”NOUS SOMMES TOUS CHARIE (私たちは全員シャーリー)” はそのデザインパターン発展形で、「JE SUIS CHARIE」はまさにLibérationなデザインです。
襲撃されたCharlie Hebdo社のオフィスは、来週の発刊にむけて、編集部をLibération社に移動しています。
対する右派は、今回の事件が移民排除へ向けて大きく右へカーブすることを期待しています。
Charlie Hebdoが風刺対象とするのは、宗教、政治、得に極右!経済、セックス、ドラッグなどの風俗文化など全体主義的なものでしたので、自分自身が「JE SUIS CHARIE」というコピーのもと国民の「団結」を推進しているのは、何だか滑稽です。
「JE SUIS LIBRE (私は自由です)」というデザイン発展形2のカードを持った女性がデモに参加していました。
18世紀に立憲王政から共和制へと市民の力で自由を勝ち取ったフランス人民にとっては「自由」はマストキーワード。
だから、今回のデモが”何故か”出版の自由や表現の自由を主張するようにシフトしたのは自然なことなのかもしれませんね?
「自由」っていうのは、各個人が道徳的な規範を持ててこそ成り立つもので、それを理解してない場合「おまえの母ちゃんでべそ」もしくは「父ちゃんインポ」的な低いレベルで、他人の尊厳を犯すことにもなるのでしょう。そしてゲンコツで返されるのは子供も大人も一緒。
僕は、執筆家や芸術家、音楽家など表現に携わる人々は、政治家などと同じく、民衆の最前線に位置し、その規範やモラルを形成していく大事な責任があると考えています。
マリーアントワネットの首を落とした時点で、ついでに神の首でも落としたかのように自由を主張し、何の束縛もなく生きている自由人も多いと思います。
僕は逆に、自分よりも想像もつかないくらい大きい存在の中に自分が存在していて、何かしらの機能や責任があると自覚した方が、自分の位置が明確になり、より価値的な表現が可能だと思っています。